クルマも語れないダメオヤジには絶対になるな!

  「クルマを語る」という行為は、今ではなかなか非現実的なものになってきて、場違いなところで披露したら、まったく変な空気になるので注意が必要です。しかし自分のステージを変えるくらい影響力のある人物に出会い、そのオーラに圧倒されながら話していると自然とクルマの話になっているなんてことが私の経験上よくあります。逆にクルマを語れないオッサンを見ると、本当は良くないことですが、少々偏見を持ってしまいます。この人はこの歳になるまで1度たりとも「クルマがもたらす自由」に価値を感じなかったのか? 人生で1度でもクルマを所有することになれば、そこには大きな社会的責任が生まれ、クルマの本質についてある程度は追求するのが「知性」ってものじゃないのか? なんて自分でもビックリなほど凶暴に相手を否定する言葉が浮かびます。

  ただし「クルマを語る」というステップに達していればとりあえずOKというわけでないです。最初に結論を言ってしまうと、日本で市販されている全ての価格帯のクルマについて語れるかどうか?が非常に重要だと思うのです。日本で現在売られているクルマ雑誌を検索すると、「GENROQ」「ROSSO」そして新たに創刊された「TRAN SPEED」など超高性能車ばかりをターゲットにしたものがいくつか出てきます。1000万円以上するクルマばかりが登場する雑誌を一体誰が購読しているのだろう?と数年前までは不思議に思っていたのですが、実際に読んでみると「モーターマガジン」や「ルボラン」といった低価格な輸入量販車を扱う雑誌なんかよりも断然に面白かったりします。

  一生に一度だって買わないだろうポルシェやフェラーリばかりが載っている雑誌を読んでいて悲しくならないのか?これも数年前の愚かな自分が感じていた疑問です。しかし実際にこれらの「スーパーカー雑誌」を読んでみると、決して読者にポルシェのスペックのバリエーションを理解させるという無意味なことに誌面を使ってはいません(そんなものはネットで調べろ)。そこに掲げられているのは、特別なクルマだけが持つボディの美しさを伝える豊富な写真であり、そんなクルマをどういう人々が愛用しているかといったことが解るオーナーインタビューなどにページが割かれています。複数台停められるビルトイン駐車場が張り巡らされた、観光地に佇む絵に描いたような大豪邸に、高級車が何台も収納されている写真と、オーナーのインタービューに圧倒された時に、一体「何を感じるか?」そして自分自身の中からどういう感想が出てくるか? こういった「剥き出しの欲望」を目の当たりにしたときに、普段は奥底に眠っている「知性」が目覚めます。

  「感性が磨かれる」なんて嘘くさい言葉は大っ嫌いです。しかし「ガレージに好きな高級車を何台も置いておく生活」が自分にとってほんの少しでもリアリティがあると確信できるなら、少なくとも「ダメオヤジ」には成らずに済むのではないかと思います。もちろん実際にそのステージに立つことは非常に困難だと思います。そして1度でも超高級車のオーナーになってしまうと、引退して免許返上するまでスーパーなクルマに乗り続けなければ!という脅迫観念を背負うイメージもあります。しかしそんな考えは「バブル崩壊以前」のくだらない常識に過ぎないのではないかと最近思うようになりました。少し前に「海賊の経済学」(P・T・リーソン著)という本を読んだのですが、その中で「海賊稼業に就役できる年月は極めて短いものだ」という一節に触れたときにちょっとひらめきました。漫画「ワンピース」などの例を挙げるまでもなく、海賊が時空を超えて現代の人々に魅力的に映るのは、海賊稼業というものが、ちょうど幕末の新撰組のような「徒花」か「打ち上げ花火」的な要素がその魅力の本質なのでは?と感じたのです。

  何が言いたいか?というと、ポルシェに40年乗り続ける生活を否定するわけではないですが、「スーパーカーと過ごす時間」もまた、ある種の「限定的な時間」という要素を伴うからこそ、人々の心に熱いものを生むのではないかということです。この本はクルマとは全く関係ないですが、海賊の事象を使って「経済学の本質を洞察」する画期的な内容で非常に面白いのでオススメです。海賊なんて・・・と思うかもしれないですが、今でも世界では海賊稼業はありますし、安倍首相の集団的自衛権がさらに拡大解釈されると、自衛官の大量離職が予想されますから、自衛隊の代わりに世界から傭兵を雇わなくてはならなくなる可能性もありわけです。かつての海賊稼業のような仕事は今後の日本とも無縁ではないかもしれません。実際にロシアの経済水域に密漁を仕掛ける日本の船団が数年前まで普通に北海道で乗組員を募集していたとか・・・。

  話を戻すと、日本の伝統的な生活習慣の中にも「ハレ」と「ケ」という言葉があるように、「非日常」と「日常」のコントラストを人生の中で定期的に周期させることは、1000年以上も前から変わることのない営みです。そう考えると人生の中で「ポルシェ911GT3」に乗る短い期間があって、その後に「ホンダ・フィット」に乗る期間が長く続くなんてのはとても自然なことであり、これこそがクルマ人生のあるべき姿だとすら思うのです。日本でクルマを売るメーカーは今後はもっと「ハレ」と「ケ」の二極を意識したクルマ作りをすると面白いかもしれません。フェラーリのような華のある「ハレ」とゴルフのような質実剛健でリーズナブルな価格の「ケ」の実用車に力を入れてみてはどうでしょうか?

  バブル崩壊から20年が経過し、未だに自分のアイデンティティを「輸入車所有」や「ドイツプレミアムカー所有」によって必死で形成しようとする旧世代が多い気がします。そんなつまらない人々がしがみ付く「メルセデス」「BMW」「アウディ」「VW」「プジョー」・・・どのブランドも例外なく地盤沈下を起こしています。クルマを語るスキルを持たない(知性を持たない)人々にとって、クルマとしての主義・主張などはまったく意味を持たないですから、メーカー開発者ではなく広告代理店によって築かれた危うい「ブランド」に幻惑されて、クルマに関して無知蒙昧な人々を商業的手法でうまく囲い込んでいる様子をみていて、うすら寒いものを感じてしまいます。こんな野蛮な物言いにも一応はそれなりの根拠がありまして、輸入車ディーラーに何も知らないフリしてお邪魔すると、いや〜ビックリするくらいに出てきます・・・「偽善的な勧誘文句」(=嘘)が次から次へと。どうやら一般の客にはこれで十分に通用するみたいです。まったく恐ろしいことです・・・。

  クルマの運転も下手くそで何も知らないっていうオヤジも嫌ですけど、こんなクソみたいなセールストークを浴びせられて、それを見抜くリテラシーもなく、メルセデス・BMW・アウディ・VW・プジョーといったブランドで何の疑いもなくクルマを買っているクソオヤジも嫌ですね。もちろん本来の日本人が持つ高度な解析力は、世界でも非常に高い水準であることも同時に知っています。日本中がクルマに一言も二言もある「カーガイ」ばかりだったら、偽善的なセールスをするブランドはやがて淘汰されるであろう!と期待しているのですが、一向にその気配がないのでどうやら「ダメオヤジ」の割合は予想よりも相当に高いのかもしれません。

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